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2007年11月08日

ベルリン時代のクライスト

本当にこんな現実があったなんて悲しいですね。

ベルリンでもクライストは多くの人と知り合った。クレメンス・ブレンターノ、ヨーゼフ・フォン・アイヒェンドルフ、ヴィルヘルム・グリム、カール・アウグスト・ファルンハーゲン・フォン・エンゼ、ラーヘル・ファルンハーゲンなどである。これらの人々ともにクライストは「キリスト教的ドイツ晩餐会」のメンバーとなった。1810年4月短編集が発行され『ミヒャエル・コールハース』『O公爵夫人』『チリの地震』が収録された。また9月には『ハイルブロンのケートヒェン』が発表されたがベルリン劇場の監督イフラントはその上演を拒絶した。

『フェーブス』の休刊ののちクライストは新聞発行を企画し、1810年10月1日『ベルリン夕刊新聞』が創刊された。この新聞は地域のニュースを毎日配信したがその目的として掲げたのは全階級の国民に娯楽を供すること、および国民意識の涵養であった。寄稿者には「ドイツ晩餐会」のメンバーに加えて、エルンスト・モーリッツ・アルント、アーデルベルト・フォン・シャミッソー、フリードリヒ・カール・フォン・サヴィニー、フリードリヒ・アウグスト・シュテーゲマンなどがいた。クライスト自身も『ゾロアスターの祈り』『世界情勢の観察』『ある画家がその息子に宛てた手紙』『最新教育計画』などの記事を掲載している。とくに『マリオネット劇場について』は有名。また、一般の読者にとって特に興味深かったのは最新の警察による発表が掲載されることだった。

しかし1811年春にはこの新聞も厳しくなった検閲のあおりを受けて廃刊となり、プロイセン当局への就職の見込みもふいになったクライストは生活のために書くことを余儀なくされ、1809年から書いていた戯曲『ホンブルクの公子フリードリヒ』を完成させたが、これは1814年までフリードリヒ・ヴィルヘルム3世によって上演を禁じられた。また、このころ『ロカルノの女乞食』『サントドミンゴの婚約』を含む第二の短編集を出版した。「ひどく傷つき、窓から鼻をつき出しているときなど僕の上に注ぐ日の光が痛いと言ってもほとんどいいくらいです」(1811年11月10日マリー・フォン・クライスト宛)

生活は苦しく、世間からも認められないクライストは自殺を決意し、癌を患った人妻ヘンリエッテ・フォーゲルと共に1811年11月21日ポツダム近郊のヴァンゼー湖畔でピストル自殺した。

引用『ウィキペディア(Wikipedia)』
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